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  • 二子渉

パートナーシップにみる意識の成長段階

更新日:2020年12月15日

僕は妻に出会う前はずっと、自分がポリアモリー的な性質、つまり複数パートナーと愛し合うことのできる性質を持っていることを感じていました。

Mixi時代には、当時まだ5人しかいなかったポリアモリーコミュニティのメンバーでした。(しかも一人はアメリカ在住。)


先日友人が「ポリアモリーが同時に複数を愛せる理由」っていう記事を紹介していたのを読んで、ああ、確かにあの頃こんな感覚だなって思ったんですよね。


じゃあ今はどうなんですかと尋ねられて振り返ってみたらなかなか興味深かったのです。


これはポリアモリーかモノアモリー(モノガミー)かっていうことじゃなくて、パートナーシップにおける自立や成熟度の話なんだなと思ったのでそのあたりのことを書いてみたいと思います。




ポリアモリー的だった時には、今目の前にいるこの人が全てで、僕の前にいない時に何をしていても感知しない、という感じでした。(紹介されていた元の記事でもそういった記述でした)


僕の人生に登場した人たちを基本的にはみんな愛しているし、今目の前にいるこの人が僕にとってのその人の全て。僕の見えていないところで何をしていても、それは僕の世界の話ではない。


それはパートナーとて例外ではなかった。

別に他に彼氏や旦那がいてもいい。その関係性は、当事者同士のことであって僕には関係ない。

別に他の人とデートしてたりセックスしててもいい。わざわざその現場を見たくはないし、嫉妬が辛いからじゃなくて興味がないからその話を長々と聞きたくない。


みたいな感じでしたし、だからパートナーが一人である必然性はぶっちゃけありませんでした。


僕はただ目の前の人に誠実に愛を持って関わるし、そういう相手が複数いても問題になりようがない。


こちらは仮に自立した自己完結の世界とします。


なぜなら僕はただ、僕であれば幸せで、僕だけである意味完成していて、他者に愛を持って関われる。


人間は一人で完成していて、完全な存在で、幸せでいられる。

誰かをコントロールする必要はないし、誰かに自分勝手な期待をしていたなと気づいたら、それを手放すことができる。


これはこれで自立した個人同士のわりと健全な世界だと今でも思います。

僕もパートナー以外の関係性は今でもこのままかもしれません。

みんな愛してるよ〜って心底思ってる。


そういう世界。




この、自己完結の世界は、もっと以前の一般的なパートナーシップや夫婦関係とはけっこう違っています。


もっと以前の典型的なパートナーシップは、これと比べるともっと共依存的な関係です。


どういうことかというと、夫婦・カップルとはこうでなくてはいけない、愛し合っているならこうでなくてはいけない、という無自覚な思い込みがあり、それをある意味絶対視してしまう状態です。


配偶者以外に恋人を作ってはいけない。

夫が一家を養わなくてはいけない。

妻は家庭で夫を支えなくてはいけない。

などからはじまって、実際には誰もが結構細かくたくさん持っているものです。


この段階にある時には、その「こうでなくてはいけない」を自分にも相手にも求めることになります。それは実際には幻想ですが、コミュニティで大勢で共有しているほど当然で当たり前で絶対的なもののように思えるものです。


その枠組みの中でお互いがはみ出さないように監視しあったり、牽制しあったり、取引しあったり、コントロールしあったりしている。

相手がこの枠組みの中にいる限り自分たちは幸せでいられるし、相手がこの枠組みから逸脱して行ったらその被害を受ける、という世界。


お互い大きく逸脱しないように自分を抑えることで関係を維持している、というところが共依存的と言えます。


離婚が今よりずっと難しかった時代には、これはこれで機能していました。でも今やだいぶ無理があります。


この枠組み、「こうでなくてはいけない」というのが幻想だとはっきり気づいてしまった人は、自己完結の世界をまずは目指すことになります。


不幸に感じることがあったとしたら、それを変えられるのは自分である、という精神的に自立した世界です。





さて今僕は、まったくポリアモリー的ではなくて一対一の面白さにはまり、その奥深さに完全に魅了されちゃっています。


自己完結の世界にいた時の僕にとっては、人と僕とは、それぞれが完成した球体同士。そしてその球同士が一点で触れ合っていました。


その時に触れているその一面は確かに真実です。

自立したもの同士のパートナーシップ。


中にはそのままポリアモリー的なパートナーシップに発展していく人もいますが、健全なポリアモリーが可能になるのは意識の発達がここに至ってからと言えるかもしれません。


でもさらにこの次の段階があります。


日本の社会ではこの二十年くらい、人の精神的な自立はすごく進んだし、今あるほとんどの心理的サポートやスピリチュアルなサポートは、自立のサポートです。


そうして自立が進んだ今、繋がり方を知らずに来てしまった負の側面が噴出しています。例えば自己完結が過剰な場合には、パートナーとの間で感じる気持ちをしっかり分かち合うことなく、例えば別れるといった重要な判断についても自分の中だけで感じて考えて結論を出したりすることになります。


それはそれで状況を見誤るし、二人がともに変化していくという、パートナーシップの最も面白い部分をごっそり取り損なうことになります。





自立したもの同士がどうやってかけがえのない人としてパートナーとつながって生きるのか。これがこの記事のテーマでもあり、GFLのテーマでもあります。


さて、GFLで可能になるのがこの、自立したもの同士が深く繋がりあって生きるというパートナーシップのあり方。


ではその、あたらしい段階ではどうなっているのか。


二人が魂を分かち合うパートナーシップは、二人で成長していきます。

そうして二人で螺旋を描きながら、二人の織物を二人の糸で織り上げていくことになります。


このように関係を紡いでいくには、もはや完成した球体ではいられません。常に不完全な自分であることを受け入れている必要がある。


僕は自己完結の世界にいた時には、今日にでも死ねると毎日思っていました。今日死んでも悔いのないように愛そうとしていたし、割とそうできていたからです。それは自分の選択だけの問題だった。


でもいまはそうじゃあない。





今は、僕が僕であるためには妻の桂子さんと歩み続ける必要があるし、二人で歩み続けることによって僕はもっと僕になっていく。


僕が、自分は何者なのかを深く知っていくために、彼女は決定的に必要な僕の一部になってる。

彼女にとってもそうであることを、僕は知っている。


彼女がある瞬間、知らないどこかで何かしていても、それはあんまり強い関心の対象ではない。

でも、どっちみち重要なことなら語り合うので、彼女の内面で重要なことを僕が知らないままになることはないし、僕の内面の重要なことを彼女が知らないままになることはない。


お互いの内面の重要なこと、とりわけ二人の間で感じた重要な気持ちはすべて語り合うことで、自分の中の不完全さが浮き彫りになる。

その不完全さ(アーリートラウマなどが関わっている)に取り組むことで、僕は自分の全体性をまた一歩回復し、もう一歩自分自身になった僕で、桂子さんに出会うことになる。


これが続いていくわけなのです。


僕自身はもともと、こういう世界があることはずっと知らなかったし、想像もできなかったです。


でも今はここまで来て本当におもしろいし幸せです。

こんな人生になるなんてね〜。


こういう世界を目指していたら、ぜひ会いに来てくださいね。




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