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  • 二子渉

多様性の受容と、自分の歪み

夫婦・カップルの話を聞いていると、かなり根本的なところからして、物の見方や捉え方、生活習慣、人生で何が大切なのかということまで含めたさまざまな好みが違ってます。 これは実は近年よく言われる「多様性」の一例というか、最も身近な例の一つだなって思う。


うちはもうほんと、すごおおおおく違う。

リビングルームとは何か、家とは何か、ってところだけでも、お互いの話を聞いて「へえええええ!!!??」ってなりまくるし、その調子で、食事とは、料理とは、娯楽とは、好きなものを食べるとはどういうことか、みたいな膨大で細かなトピック一つ一つについて、ものすごく違います。

そして、二人がその違いを見つめながら、つながりを深めていくのは、ほんとうに容易じゃない。


***


多様性を大事にしようとしてる人の多くが、「好みや価値観の違いはあるものだし、あっていい」っていうと思います。

だからただ多様性を認めるだけなら、ふうん、あなたはそうなのねとフラットにみてあげればいい。

生活していくにあたって、それがあまりに合わなかったら別れたり離婚したりしてもいい。家庭内別居状態にしたり、別の恋人を作ってもいい。

ただ多様性を大事にして、互いの現状そのままを認めるだけならね。


でも、この人とこそ共に生きていこう、としている時には、そうはいかない。

相手と真に対話することと、自分自身の歪みを修正していくことが、ずっと必要になるのでした。


自分自身の歪みっていうのは、こういうところにしこたま現れます。いわゆるアーリートラウマの反応が。

場合によっては好みや価値観自体が傷からくるものでありうるし、その場合その好みや価値観は本来人の魂が持っている中立性というか、ニュートラルさとは違うレベルにあるものだったりする。

また、自分の好みを貫く、譲る、誘う、主張するとか、相手の好みを受け入れる、はねのける、とかそういうところにも自分の歪みはたくさん現れるわけです。


***


だからこうした歪みに気づいて修正していくこと、それもただ頭を切り替えるだけでは修正できないレベルのものも含めて修正していく必要性に迫られます。

そしてそれをしていくためには、お互いが自分の大人の部分、良質な部分から関わり合って対話していく必要がある。

この作業はなんというか、ここだけ切り取るとぶっちゃけ僕にとってはかなりめんどくさい。

そうなんだけれど、これを地道にやっていくことで得られるものは、想像をはるかに超えていると今では実感しています。

まずはなんといってもおもしろいし、目の前の人がほんとうにかけがえのない人になっていくし、生きることへの肯定感とか希望とかが桁外れに深まる。

これはたくさんの人に体験してもらいたいなあ。

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