先日投稿した通り、桂子さんの体調不良という現実を創造している僕の側の要因。 それをその後も見つけようとしていまして。 なんらか僕が感じるのを避けて来た痛みがあり、その痛みを避ける回避行動がこの現実を作っているだろう、というのはGFL学んでたらわかることなんですよ。 なので、その大元の痛みってなんなんだろうと探索して、個人セッションを受けました。
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前の投稿で書いたようにオンラインサロンでも、心得のある皆さんからあれこれヒントをもらったり、既にパーツはいろいろ出て来てたのね。
・桂子さんがもし、めっちゃ元気で社会とも自分でどんどん繋がっていきいき生きるなら、僕にとってどう不都合なのか。っていう問いがあって。 「そしたら僕、必要ないじゃん」って思ってるぞ、とか。 ・生まれた家族の方で、特に母に対してこの想いが強いのだけれど、「いつになったら自分のたましいの道を生きるんだよ!どれだけ、いつまで、めんどう見ればいいんだ!?」みたいに思って来たとか(アーリートラウマのケアを引き出す防衛のテーマが入ってる)。 ・僕のことを助ける力を持っている人が、全然助けてくれないっていう観念を持っちゃってる(元を辿るなら、子どもの時に周りの大人が、僕が本当に助けて欲しいような助け方をしてくれなかった、と体験している)とか。
いくつか重要なパーツが見えて来てはいた。 こうしたところから、どう読みときますか。 僕が感じるのを避けて来た痛みがあり、その痛みを避ける回避行動がこの現実を創っている仕組みを。
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セラピストさんは開始早々、こう指摘しました。 「子どもの時に、地球の未来のことを考えていた小さいふたこさんの孤独、その痛みが伝わってくる感じがしました。」
それで僕は、ほーーーう、そっちから攻めるか!とすごくワクワクしました。 この時点ではぜんぜん見えないけれど、何か重要なところに触れている直感が感じられる。 そう。この辺になにかある。 以前別の機会に小さい時の僕にイメージの中で会いに行くワークで、3歳だっけ、5歳だっけ、その時期の僕が、この青い惑星の美しさを守るための方法、そのために新しい地球社会を創る方法を、今の僕でも理解できないようなレベルでたましいかけて考えていた場面を見たことがある。 それを見て、大人になってる僕は、「ああ、この大事な仕事を誰にも邪魔させてはいけない。この子がやり遂げられるように、僕がなんとしても守らなくては!」って思ったことがある。 そして今から思えば身近な人に、つまりは当時なら家族に、理解され、支えられ、守られたかった。でもそれは得られなかった。 それもあって僕は、物心ついた時には「誰にも分かってもらえない病」の重症患者になっていました。 そして人間に深く絶望した、、、と思っていたけれど、家族に深く絶望していたって言ってもいいんだなと今回思ったのでした。
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「今でも、家族にそんなふうに理解され、支えられることは到底期待できないという絶望が深すぎる。今も(望んで得られないのは痛すぎるだろうから)望むのは恐ろしすぎる。」 と言った僕に対して、セラピストさんは、 「それを聞いて思い浮かんだんですけど、、、でもあーちゃんは絶対ふたこさんを助けに来ていますよね」 といいました。
ほんとそうだなあ。 僕にとっての理想の家族像を取り戻せるように、助けに来てくれている。 僕は彼女のたましいの願いを理解しようと努め、その道を進めるようにと支えられる存在でありたい。
改めて思ってみるならば。 家族が、そのメンバーがたましいの道を生きられるようにと励まし支えるのは、むしろ健全なことでしかない。 最も身近に生きる人の、たましいの願いを理解しようと努め、その道を行けるようにと支えるのは、むしろ健全なことでしかない。 特に親たちが子どもたちに対してそうであることは、むしろ、ほんとなら当然望んでいいことだった。真っ先に望んでいいことだ。 親たちが大人だからこそ持っている力は、子どもたちのたましいの道を支えるために使われてこそだ。 そして子どもたちに対してそうあるためには、親たちが背中を見せてこそだったし、だからたましいの道を行くのを、夫婦が支え合っている必要がある。 家族がこのような意味で健全なものであったなら、それは僕にとってとても欲しかったものだ。 本来家族とはそういうものであってよかったはずだ。 すっかり諦め絶望し切っていたけれど、そうであってよかったはずだ。
そう思いませんか?
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こうして、僕が感じられていなかった痛みと、その痛みとセットの願いが見つかったのでした。
すっかり絶望して、その痛みを回避し続けていたことで、僕は「家族は、たましいの道を尊重し支え合うわけがない」という現実をせっせと創造していました。 なんなら、「ほら、家族を大切にしようとしたら、僕のたましいの道は歩けなくなるじゃないか。使命は果たせなくなるじゃないか。」と証明しているようなものでした。自分で創造することによって。
でもこの日からはっきりと変わったのです。
僕は、「この家族と一緒だからこそ、ほんとうに自分らしいたましいの道を歩けている」と実感する体験を求めていく。そのことにブレなくなった。 そこから数日ですが、桂子さんの実家で開かれたうちの子のいとこの誕生会にみんなで行けたり(けいこさんが、楽しみの目的で出かけたのは産後初)、僕ら二人の対話がさらに深まったりしているところです。 桂子さんはあらためて、「私の方にも、わたるちゃんがたましいの道に邁進したら、一緒にいられなくなるんじゃないかという恐れがずっとあったし、今もある。でも単に一緒にいられればいいわけじゃなくて、わたるちゃんが本当に幸せでなければ意味がないんだ。」と涙を溜めながら語ってくれました。
一通り進んでみてから思うに、そもそもGFLってこういうことのためのものなのですよね。 一人で生きる以上に自分らしく生きるために、二人で生きる。そのための道。 それは今の世界で、切実に求められているもの。 やってやろうじゃないですか。と決意を新たにしましたですよ。
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ちなみにこのセッションを提供してくれたのは、最近GFLの認定アドバイザーになった 九里 裕美 ちゃん。
僕の最も近くで長年学んできて、いまではかなりの凄腕。 こういう、夫婦・カップルの関係性のことと現実創造のことが、併せて読み解ける人をたくさん育てることもしたいなあと改めて思いました。
(今の時期、太陽が沈む直前に玄関から差し込む夕日がすごいきれい)
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