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  • 二子渉

攻撃を容認することと、健全な怒りを大切に扱うことの境目

更新日:8月27日

話が合わない人、一見理解し合えないように思える人、そういう人とどうやって共に生きていくのか。

それが僕がGFLという名前で探求していること。


そのためには、トラウマに基づく防衛反応(防衛的な子どもの意識)と、そうじゃない成熟した大人の意識の区別が、絶対的な重要性を持つ。

それがその人の現実のクリエイトの仕方に決定的な影響を持ってるから。

それがその人が、投影の夢の中にとどまるのか、生身の人間と出会えるかの境界だから。


GFL学ぶ人は最初にこの区別をつけるトレーニングから始まる。そしてそれは結構ずっと続くんだけれど、でもこの区別がつくほど、自分の望む現実がクリエイトできるようになる。



***



これまであったつながりのための方法論では、健全な怒りを大切にするということと、特定の存在を対象にした攻撃性(つまりは暴力)を容認することが、明確に区別されて言語化されてきていなかったと思う。


誰かに向けられた暴力そのものが、その相手との間につながりをつくるわけがない。まあ幸運な例外はあるけどね、昔のドラマで殴ったら気持ちが通じたみたいなのとかね。

例外はあるけど、基本原則としては、この未熟な意識をわざわざつかっても、葛藤状態にある相手との間につながりは作れず、むしろ分断を深める。


一方、健全な怒り(ハートの痛みのひとつ)は、つながりをつくる。

これを選べること、ホールドできること、そして表現できることが大人の意識。


もし健全な怒りをないことにしたら、それはそれで真のつながりを作ることを邪魔してしまう。健全な怒りをないことにしようとするアーリートラウマの反応もあって、それが強い人は常に虐げられるような体験を創造したりする。けどその詳細は別の機会に。



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さて、でも健全な怒りを選ぶとか、ホールドするって、一人じゃ難しいと僕は思ってる。


とくに長年抑圧されていた怒りなどは、最初から核心をとらえて表現なんてできないのが普通で、非難めいた表現、攻撃的な表現であってもしてみたほうがいいと思う。


そしてそれは、葛藤状態にある相手との間でやったらまずい。この時点での表現は分断を作る。GFLではこれは勧めない。明確にNo。ここが重要な分かれ道。


そうじゃなくて、自分であれこれ表現してみるうちに、自分の中の核心の痛みを見つけていくことこそが重要。それが見つかってから表現したら、その時初めて、つながりがつくられるし、本人の体験している現実が変容させられる。



***



そしてこの「自分であれこれ表現しているうちに、自分の中の核心の痛みをみつけていく」っていうのは、怒りをホールドしてその本当の痛みに耳を傾けること、とも言えるけれど、これ実際一人では難しいことが多いの。


葛藤がある相手との間では、99%相手も反応的になるし(こっちが反応的になっている状態だからね)、同じ現実を再体験することになる。もし直接の相手でなくても、不用意にこの表現をしていくと、周囲から理解されない孤独、の体験を創造しかねない。


もしあなたに、ずっと相手に分かってもらえないとか、さらに当事者以外からも理解されず孤独だ、という現実を体験しているテーマがあったら、これをやってる可能性が高い。


だからできればその当事者じゃない人(または人たち)に、「自分の怒りをホールドすること」を手伝ってもらいながら、核心の痛みを見つけていく作業が役立つ。


それを助けられるコミュニティや文化があるといいし、僕はそれを仲間と一緒に作っている。GFLでやっていることの最重要なパーツの一つ。

実際、学んだ人たち同士でそれが機能している場面を見ることも増えてきてて、僕がその様子から希望をもらってる。


この文化がないところだと、非難や攻撃のレベルで応援のエネルギーをもらってしまって、集合的に、投影に基づく現実創造のパターンを強化してしまうことも少なくない。投影の夢って、集団で見た方が抜け出るのが難しくなるの。


相手との葛藤も解消しないし、当事者以外の理解と支援も得られない、という現実を創造してしまうのが、GFLある程度学んだらはっきり見えてくる。



まあとにかく、怒りが誰かへの非難や攻撃という形をとっているうちは、あくまでそれを自分の核心の痛みにつながる入り口として使うのが吉。


それが実際に、あなたの中の分断を癒し、分断のない現実を創造する。


こういうことをわかって変容させていける道がもうあるので、なんか良さそうと思ったら学びにきて仲間の列に加わってほしいです。





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