男らしさ、女らしさ、自分らしさ
- 二子渉
- 4月17日
- 読了時間: 3分
僕は子どもの頃、よく泣く子で、小学校の低学年の時の3者面談で、先生から男の子なのに泣きすぎるという感じで否定的に言われたのを覚えています。
めっちゃ昭和の頃の話ですけれど。
その時僕は、反論したんですよね。
なんて言ったか正確には覚えていないけれど、僕が言おうとしたのは、よく泣くというのは豊かな感受性ではないのか?というようなことでした。
その時はその話は、通じなかったというか、お茶を濁された感じで後味悪く終わりました。
でもその時を境に、泣かない男を目指し、やがて完全にそうなった、その転換点の出来事だったのでした。
(豊かな感受性を回復した現在はまた、しょっちゅう泣いてますけど)
***
でもそれよりも少し前に、もう一つ衝撃を受けた出来事がありました。
それはやはり小学校の1年生くらいの頃、僕のことを好きだと言ってくれるSさんて女の子がいたのですけれど、その子がある時、こんなことを言いました。
「ふたこくんのことが好きなのは、かわいいから。よく泣くところがかわいいの。」
この時に僕が感じたのは、理解された安堵や喜びではなく、猛烈な屈辱感でした。
男に生まれた自分の存在を、真っ向から否定されたような感覚になったのでした。
この時の方が、もっと男らしくなろうと強烈にモチベートされたと思います。
もしかしたらよく泣くのは自分らしいといえばらしいかもしれないけれど、それじゃあ全然満足じゃないのだ、と、今の言語化能力で言うならそんな気持ち。
一つ目の、先生とのエピソードは、それに比べると「話のわからない人からあれこれ言われるのはめんどくさいから」、泣かないことを目指したっていう成分がかなりある。
***
そんなわけでですね。
このテーマについて、もう少し精密に話をするなら。
「男らしくあれ」は、ある人にとっては自分らしさを否定する呪いになるんだけれど、別のある人にとっては、潜在的な男性性の可能性を信じ育むための言葉になり得る。
この辺りを言語化していくのは骨が折れるなあと感じています。
少なくともこの仕事をしてきて思うのは、多くの男性にとって、真に女性から必要とされる男性性を身に付けたい、という想いもまた大きい。
平たくいうと、愛する女性が求める幸せを、作り出すのを手伝える男でありたい、と素朴に純粋に思っている部分を持つ男性は多い。
そのために愛を物質化して届ける力をもっと伸ばしたい、成長したい、と多くの人が思っているし、大ヒットする少年漫画はの多くはそんなテーマ。
それが男性性の持つ見過ごせない側面なのだと思うのです。
その前提があるとですよ。
もし愛する人ではなく、例えば先生からの「男らしさより、自分らしさで生きていい」という言葉を聞いたとして。
「僕はそれでも本当に、男性として必要とされるの?」「愛する人と幸せになる力を、持てるの?」という恐怖を感じる子はけっこういるんじゃないかなと思ったのです。
僕がたくさんの人の話を聞いてきた経験では、この恐怖感の巨大さは、多くの女性にとって想像し得ないくらいのもの。
本当に生きる意味にも繋がるくらい重みがある。
***
自分らしく生きられるように子どもたちが支援される社会であってほしいのは当然として、
成熟した男性性、成熟した女性性のイメージが、今より深まり、それが社会に共有されるといいよなあと、こころから思うのでした。
そうした成熟はぐるりと回って、性的側面も含めた個人がその人らしく生きることを、きっと励ますものになるだろうと。
どうなんでしょうね。
備考)
これはある投稿に触発されて書いている文章です。
男らしさより、自分らしさで生きていいんだよ、というのを、どう子どもたちに伝えたらいいだろうといった投稿でした。
その投稿にしたコメントを、独立した投稿用に改訂しました。




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