Kさん(仮)はGFLの熱心な受講生で、機会を捉えては実際的な質問をします。
最近こんなことで困っているのですが、どう捉えたらいいでしょう、どう取り組んだらいいでしょう、っていう質問をよくしてくれるので、皆の学びになるのです。
先日もそんな場面がありました。
僕はそう聞かれちゃうと、一生懸命考えて答えるわけなのですが、答えているうちにKさんが、「なんだか、これが解決してしまってはまずいと思っている自分がいる気がします。」と言い始めました。
ほほーう。
そういうことって、実はけっこうあるんですよ。
困りごとがあるっていうことが、もっと恐ろしい何かを回避する策になっていること。
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詳しく聞いてみたところ、「困りごとが解決してしまったら、ふたこさんやみんなに構ってもらえなくなる気がする。どうやって構ってもらったらいいのか分からなくなる。」と、そう思っている部分が見つかりました。
こう思っている部分を持っている人は、それなりにいるんじゃないかな。どうですかね。
僕は人に構って欲しいっていう感覚がかなり薄いので、誰かがそう思っていても、そう想定する発想もわかないことが多いんですけれど(それで結果的に塩対応になってたり、逆にまんまとかまっていたりするらしい・・・)。
まあとにかくこの時のKさんは、そう気づいた。
関わりを持てなくなるのが寂しいし、痛い。 かといって、困って見せる以外の手段を知らない。
言われてみれば確かに、Kさんが楽しい話するのは聞いたことがないかも。
それで「いやいや、Kさん、ただ楽しいこととか話してもいいんですよ。『聞いて聞いて〜。最近こんな楽しいことがありまして!』みたいに。」っていう話をしたのです。
それを聞いたKさんは、そんなことしてもいいのか、、、という雰囲気でした。
そんなこと話しても、相手には響かないし、むしろ嫌がられるだけなんじゃないかと思ってきた様子。
みなさんどう思いますか?
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GFLで大切にしているのは、自分の願いをしっかり抱えて立つこと。
Kさんの場合には、「構ってほしい」というのが願いの表面的な表現ですが、より掘り下げるなら、自分の感じたままの表現で人と関わっていたい、とでもいう願いでした。
多くの人が、特に大切なことや、個人的にすごく楽しいこと好きなことを、パートナーなど身近で継続的な関係の人に語れなくなっていきます。
自分の感じたままのことを表現するのが難しくなっていきます。
興味なさそうにされたり、めんどくさがられたり、相手のそうした反応にこころくじけて言えなくなっていくのです。心当たりありませんか? (Kさんの場合はパートナーだけでなく大半の人にも語れなくなっていました。)
それは、その大切な人との関係性で、こころを閉じていく流れを作ってしまいます。
そして関係性を冷え込ませることになっていくのです。
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今回は皆で集まって話していた時でした。
なのでそれぞれ自分が好きなこと、楽しいと感じることを、「相手がどう思っているか」を気にせずに話していい時間をそのあと持ってみたのです。
これがすごい楽しくてですね。
けっこうマニアックな話をする人もいるんだけれど、その楽しそうな、嬉しそうな様子にこちらも緩んでくるのです。
Kさんも、最近お気に入りのチュロスのことを語りまして、僕は初めてただただ楽しそうなKさんをみた気がします。
相手が興味なくても、相手が共感できないことでも、相手に何の役にも立たなくてもいい。
自分が好きなこと、楽しかったこと、感動したことをこころのままに表現する。
これができている瞬間、あなたのこころは開いてきます。
これが結果的に、開いたこころ同士で共鳴を起こして、お互いが開き合うことにつながります。
パートナーとの間だったら、そういう時間をわざわざ作ってもいいです。
「今から話すことはさ、あなたには全然興味持てないことかもしれないけど、わたしがすごい楽しいって思ったことなんだ。私がそれを表現するのを、ただ見守っててもらえるかな。」みたいな設定でね。
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のちほどKさんが、「今やったような時間って、GFLではなにか名前とかついているんですか?放牧タイムって別にあるじゃないですか。ああいう感じで。」っていうので考えまして。
名前!ついてないですね。なにがいいかな。
あ、もうこれ「チュロストーク」でいいんじゃね!?ってことになり、以後こういう設定の時間を「チュロストーク」と名付けることになりました。
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