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  • 二子渉

魂からの願いにしがみついている人は、美しい

更新日:8月27日

いろいろ胸の痛むできごとがあって、妻とのお庭ティータイムに聞いてもらってたんです。 何がそんなに胸が痛むのだろうねと。


僕の中の、傷ついた子どもが痛がってる場合と、僕のたましいというか、僕の本体というかが痛がっている場合で、意味が全然違ってくるからね、こういうときは丁寧に見ていくことを夫婦で習慣にしているわけ。


特に僕の本体というか、の痛みの方なら、それは言いかえると僕のほんとうの願いにつながってる話。

僕がなんのために生きようとしているのか、僕の愛はどう表現され違っているのか、といったことに関わる話。


そしてしばしば、傷ついた子どもの要素(ある種のトラウマ)と、ほんとうの願いとは、混ざり合ってる。



***



僕が直接、とても痛いと感じていたのは、僕が届けたいと思っている人に、僕の持っているものを届けられないという痛み。


ここまで僕なりに血反吐を吐く思いで(笑)、愛する人と共に生きられる方法を見つけてきたし、それは現時点で、すごく広範囲で効果的なものにまで磨き上げられてる。


そして、愛する人と愛を深めながらともに生きていきたい、という願いを持っている人も、僕が思ってた以上にたくさんいる。(僕はもともとは自覚してなかったから、意外)



だけど、届いてない。



そういう痛み。



***



僕の中を探るために妻があれこれ投げかけてくれて、例えば「それを届けられなくても、あなたの価値は何も変わらないよ」とかね、投げかけられて、「ん〜〜、そういうことじゃないんだよね」とかってやりとりを続けていって。


それで今日思ったのは、

僕はその人が、その人自身の願いと繋がりきれずにいるのを見るとき、とても痛みを感じるということ。これは本体側の痛みだ。


その痛みと裏表の関係にある願いは、  「どうかあなたの中の、その願いを大切にして欲しい」という願い。

「どうか自分の中の、真の願いを見つけ出し、その願いにつながって欲しい」そういう願い。


だってそれこそが、その人本人のための人生を導いていくものなんだもの。


そうした魂からの願いにしがみついている人は、美しい。

僕はそう感じる。



それは執着ではなく。愛だ。

手放すべきものじゃなく、しがみつくべきもの。



あなたの中の、真の願いにしがみついてください。

それを決して手放さないで。



僕はそれを全力で支持します。


GFLを伝える中でやっているのは、こういうことだなあって改めて感じた午後でした。



あなたの中の、真の願いを決して手放さないで。





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