いろいろ胸の痛むできごとがあって、妻とのお庭ティータイムに聞いてもらってたんです。 何がそんなに胸が痛むのだろうねと。
僕の中の、傷ついた子どもが痛がってる場合と、僕のたましいというか、僕の本体というかが痛がっている場合で、意味が全然違ってくるからね、こういうときは丁寧に見ていくことを夫婦で習慣にしているわけ。
特に僕の本体というか、の痛みの方なら、それは言いかえると僕のほんとうの願いにつながってる話。
僕がなんのために生きようとしているのか、僕の愛はどう表現され違っているのか、といったことに関わる話。
そしてしばしば、傷ついた子どもの要素(ある種のトラウマ)と、ほんとうの願いとは、混ざり合ってる。
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僕が直接、とても痛いと感じていたのは、僕が届けたいと思っている人に、僕の持っているものを届けられないという痛み。
ここまで僕なりに血反吐を吐く思いで(笑)、愛する人と共に生きられる方法を見つけてきたし、それは現時点で、すごく広範囲で効果的なものにまで磨き上げられてる。
そして、愛する人と愛を深めながらともに生きていきたい、という願いを持っている人も、僕が思ってた以上にたくさんいる。(僕はもともとは自覚してなかったから、意外)
だけど、届いてない。
そういう痛み。
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僕の中を探るために妻があれこれ投げかけてくれて、例えば「それを届けられなくても、あなたの価値は何も変わらないよ」とかね、投げかけられて、「ん〜〜、そういうことじゃないんだよね」とかってやりとりを続けていって。
それで今日思ったのは、
僕はその人が、その人自身の願いと繋がりきれずにいるのを見るとき、とても痛みを感じるということ。これは本体側の痛みだ。
その痛みと裏表の関係にある願いは、 「どうかあなたの中の、その願いを大切にして欲しい」という願い。
「どうか自分の中の、真の願いを見つけ出し、その願いにつながって欲しい」そういう願い。
だってそれこそが、その人本人のための人生を導いていくものなんだもの。
そうした魂からの願いにしがみついている人は、美しい。
僕はそう感じる。
それは執着ではなく。愛だ。
手放すべきものじゃなく、しがみつくべきもの。
あなたの中の、真の願いにしがみついてください。
それを決して手放さないで。
僕はそれを全力で支持します。
GFLを伝える中でやっているのは、こういうことだなあって改めて感じた午後でした。
あなたの中の、真の願いを決して手放さないで。
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