執着する姿は、時に、美しい
- 二子渉
- 5月14日
- 読了時間: 3分
執着っていうのは苦しみの元だ、とはよく言われることです。
どう思いますか。
実際そういうことは多いですし、お釈迦様もそう言ってたはず。
でですね、物質的に十分豊かになって以降の日本社会では、精神的な充足や自立をサポートするサービスがたくさん出てきまして、今では山ほどあります。
そのほとんど全てが基本、執着と聞けば手放すことを推奨しているんじゃないかと思うほど。
自分の内面に取り組んできた歴のある人にとって、このテーマの答えが決まっているような気分になります。
ただですね、どうなんでしょ、というのが今日のテーマ。
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執着するって、願っているものを握りしめて、離さない、みたいな意味だと思います。
例えばすでに振られた片想いの相手が、いつか自分の方を向いてくれるんじゃないか、そうなってほしい、みたいな願いをずーーーーっと持っていたら、まあ大抵の場合は苦しいです。
やっちゃいけないって意味じゃないですからね、単に、苦しいことが多いって事実の話です。
さてここで結婚3.0、GFLでは、実は本人がほんとうは何を願っているのか、を見つけ出すことが本質的に重要だという捉え方をしています。
そして何か、苦しみがある時には、ほんとうの願いと切り離されてしまっている時なのです。
自分がほんとうは何を願っているのか、それゆえに何に心底こころ痛めているのか、そこに繋がることができたら、それは愛の場所であり、生命力の源泉でもある。
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そしてそれは時に、とても実際にはそのまま実現することはないようなものだったりもします。
世界平和だったり、◯◯差別の根絶だったり、僕だったら地球の生態系が守られることだったり、もっと個人的な、愛する人と究極の深さで出会うことだったり。
きっと生きてるうちに、そのまま実現はしないでしょう。
だからもし持ち続けたならずっと、叶わない痛みと隣り合わせの人生になる。
でも、それでいい。
その願いとつながり、「私はこれを願っている私なんだ。この願いを胸に生きていく私なんだ。」というところに、ガシッと立つことさえできれば、その時愛と生命力に溢れ、自分自身を生きている充実感を持てるようになります。
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こういう、ほんものの願いというのは、別の側面から見たらその人のハートが開いていてこそつながり続けられる願いです。
こういう願いなら、「執着」していてこそ、その人が輝きます。
ほんものの願いを諦めることなく、それにしがみついている生き様は、美しい。
本人も生きる喜びに満ちています。
そう思いません?
あなたは、どんな願いを胸に生きていくあなたでしょうか。



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