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  • 二子渉

放牧の部屋または沈黙で繋がる時間

更新日:8月27日

この歳になって(?)あらためて人が「ただいてくれる」ということの偉大さを思い知っていますよ。



パートナーシップのオンラインサロンで「沈黙で繋がる時間」っていうのを試験的に開催しました。

これがね〜、そのあとのシェアタイムも含めて、そうとうに興味深い時間になりました。


最近では9月のリトリートの森の中で、そして古くは3年くらい前の二子家が公園でやっていた「放牧タイム」。


リトリートの時には、「一人で森に行くのは少し怖かったりするけれど、人がいて、でも放っておいてくれるという設定が、すごく安心感があって自由だった」みたいな感想が聞かれました。



これをオンラインでそれぞれの部屋でやったらどうなるのかという実験でもありました。

とくにある程度GFLの心得のある人たちです。ニュートラルな意識、ニュートラルな神経系の状態でいることをこころがけているひとたち。


***



やってみた結果、すごいよかった。



疲れていたのですがエネルギーがチャージされました、という声がまず聞かれました。

これはわりとそうなるんじゃないかなと予測していたことだったのですが、でもそれだけじゃなかった。


やりたいことを集中してやれた。課題だったり転職活動だったり家事だったり音楽鑑賞だったり。

これ全員が言ってたのがとても印象的でした。


僕もだまって音楽聴いていたのですが、不思議と一人で聴いているときとは違った種類のリラックスした感じになっていましたね。


GFLでは重にパートナーとの関係においてだけれど、つながりを持つことと自由であることの、両立・共存に徹底的にこだわっているのです。今日のこの感じは大きなヒントというか、いろいろ示唆的なものがあるなあと改めて感じました。



非防衛的な人が、ただ存在してくれている。


そのことを、時々チラッと目で見たりして確認してるだけのつながり。


それがこんなにもパワフルだとは。


大勢の人がいる満員電車やパチンコ屋じゃ同じ現象は起こらない。けど、そのカケラはあるのかもしれない。自由で繋がれる在り方はやっぱりかなり決定的に重要なんだろうな。


まあとにかく、いや〜、おもしろかった〜〜〜。

おもわずサロンでは誰でも声をあげていつでもできる体制にしちゃいましたよ。




(写真は本日のうちの窓。この景色見ながらコーヒー飲んでられるのとか、とても幸せだった〜)



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