「◯◯差別」という概念が、健全な時/破壊的な時
- 二子渉
- 9月29日
- 読了時間: 7分
更新日:10月5日
◯◯差別とか◯◯ハラスメントとか、ルッキズムとかもそうなんだけど、正義の概念みたいなものが人を守るときと、不当な暴力になるときはどんな場面か。
昔からとても関心があります。
今日はそんな話。けっこう超大作。
まず、僕の周りには差別の当事者がそこそこたくさんいます。
セクシャルマイノリティや在日外国人などなど、彼らがそれだけで生きづらい思いをしている話をたくさん聞いてきたし、そんな時ほんとに胸痛みます。
一方で、差別とか、ハラスメントとか、ルッキズムとかもそうなんだけど、正義の概念みたいなものが暴力的に用いられる場面もよく目撃します。
正義の概念を振りかざして、個人だけでなく、集団で誰かを攻撃するような場面。
そういう時も本当に痛いし、例えばLGBTQの件など、一部の人のそうした行き過ぎの結果、元々のLGBTQ差別をなくしていく健全な運動までもが反撃(攻撃)対象になるとか、本当に痛い。
この両面をたくさんみてきて、考えてきたことがあるので、今日はちょっとその話をしてみるのでした。
けっこうセンシティブな話なので、まさに正義の仮面を被った暴力が僕に向くことが怖いんですけれど、これは色々な意味でとてもとても大切なトピックだと思っているの。
なので超大作になっちゃった。
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さて僕の本職である結婚3.0、そしてGFLでは、夫婦・カップルをはじめとする身近な個人同士の葛藤を、自分自身の可能性を制限している反応や思い込みに気づいて目覚めていく、そのきっかけにしていくことを目指しています。
方法論を持って、その道を選択したら、実際自分を解放していくことができる。
その観点から見ると、最初に言った「正義の概念」は、誤用されると、自分の閉じた可能性に気づき、その可能性を開く、という機会を、奪うものにもなってしまいます。
自分に向き合う代わりに、誰かを罰して終わってしまう。
僕は20年以上、たくさんの人の人生に関わってきて、今はそう捉えています。あくまで誤用すると、だよ。
またフラットな関係、社会的に特にどちらかに力が与えられているのではない関係において、正義の概念の誤用を許したら、別の種類の(差別で問題とされるのとは反対の)過剰な力の使われ方になる。
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例えばですよ。
上司と部下の間でセクハラみたいなものがあった時には、上司は社会的により大きな力を持っているので、個人の力では対抗できない。いや、できる時もあるかもしれないけれど、上司と部下の関係は、ただの個人と個人の関係ではなくて、上司が◯◯さん個人として持っている以上の力を持っている。社会的に与えられて持っている。
この「力の非対称性」があるから、「それはセクハラなんですよ!アウトです!」という概念を用いて、例えばコンプライアンス部がそのような力を与えられることで、ハラスメントを止めたり糾弾したりできるようになるわけですよね。
力の非対称性があるときに、そのバランスをとるカウンターパートが作られる必要がある。
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でもこれが、個人対個人の場面だったら。例えば同窓会で会った昔のクラスメイトが、帰り道に「君は相変わらず女らしくないな(とか、男気がないなとかね)」と言われたとしたら、話は別です。
二人の間には、基本的にはそれを不快に感じた本人が対応する力を本来なら必ず持っているし、もしそれを発揮できないなら、それがその人の「閉じてしまってる可能性」であり、傷つきです。
僕はそう捉えた方が、その人の本来の力と可能性を、みくびることなく信じることになると思っているんです。
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◯◯差別も根本原理で言うなら同じ。
例えば法律・制度の中に組み込まれている差別には、個人の力では対応できない。その制度は一人分以上の、というか大人数のパワーを預かって運用されてるから、「多勢に無勢」、個人じゃとても対抗できない。
でも一対一の個人間なら、本来、それを不快に思ったり不利益を感じた本人は、それに対応できる力を原理的には持っているし、回復したら使うことができる。
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そんなわけで、「◯◯差別」「◯◯ハラスメント」や「ルッキズム」といった概念は、力の非対称性の中で不利益を受ける人を守るために必要。それがまだ社会で気づかれていない段階においては特に。
上司と部下、公務員と市民、マスコミと個人――こうした「個人を超えた力」を持つ側が暴走しないようにするために、概念化して可視化しする必要がある。
その暴走を止めるカウンターパートとなる力を「発明」する必要がある。
「その力の使い方は、暴力的なんですよ。社会があなたに与えたその力は、そんなふうに使われるために与えられているんじゃないですよ。」
「それがわからないんだったら、罰則使って力づくでも止めますよ」っていう力を託された存在や仕組みを作る必要がある。
そうでなくては、不当な力の行使が、それと気づかれないまま行われ続けてしまう。
ですよね。
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この概念がちゃんと社会の中で認識されるようになったら、例えば肌の色が理由で公共交通機関を利用できないというのは間違っています、って多くの人が理解したなら、法律含め社会システムの方にしっかり反映されるべきことです。
「肌の色で差別してはいけない。肌の色が何色だろうが、法律を守れば問題ないし、法を破れば同じように裁かれる。」それだけになっていく。
それが僕らが付託した権力の、正しい使われ方というものでしょう。
社会の公正さは、その都度の差別への気づきと、それを是正する力の発明によって更新されていく。それが理想だと思う。
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さてここで。
この「正義の概念」を、対等な個人同士の関係に持ち込んでしまうと。より正確には、その正義を使って、個人を超えた力を呼び込んで行使してしまうと。
攻撃を正当化する道具に成り下がってしまう。
それだけでなく「自分の痛みをきっかけに、本来の自分を取り戻す機会」が失われてしまいます。
例えば「お前ほんとバカだな」「ブスだな」「使えねえな」「貧乏だな」と、対等な個人から言われたとして、それにどう応答し、どのくらいダメージを負うのかは、言われた側の個人次第。
あるAさんにとっては、ただちょっと嫌な気持ちになるか、全く気にならないかもしれない。
でもあるBさんにとっては違うかもしれない。例えば幼少期に、大人たちからいつも「使えない」というメッセージを受け取っていて、その疎外感に対して無力な子どもだったりしたら、すごく傷ついた気持ちになりうる。
そんなふうに傷ついた気持ちになるとしたら、ここには明らかに、この人が取り組んで回復できる力の源が眠っている。
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回復したあかつきには、「へ〜、あんたそう思うの。で?」って思うだけで受け流してすぐ忘れちゃうくらいになるかもしれないし、「そうか、ごめんよ。本当にあなたの力になりたかったんだけれどな」と正直な気持ちをただ打ち明けられるようになって、そこからまた関係を築き始められるようになるかもしれない。人によって色々だけれどね、そこは。
とにかく「使えない」と言われたところで、その相手との関係で無力な子どもではなくなる。
そうやって自分の本来の姿を取り戻す機会にできる。
同種のトラブルに見舞われても、「その人らしくあり続けられる」ようになる。
そのように健全な力を取り戻すほど、人は幸せに生きられるし、社会にも貢献できるようになる。その人らしい愛を発揮しながら生きられるようになる。
こんな時にもし、ハラスメントを理由に、法律なのかコンプライアンス部みたいな何かなのか、自分を超えた力を使って相手を罰するだけにしちゃったら、その可能性が丸ごと潰されてしまいかねない。
それは個人としても、社会にとっても、大変破壊的で残念なことと思う。
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そのようなわけで。
こういう正義の概念、特にそれを元に自分を超えた力を呼び込む行為は、非対称な力関係を中和する場面に限定して使うべきものだと僕は思う。
この適用範囲というか、境界線というかを、見極めていくことと、自分の痛みから自分を取り戻す道をサポートされること、その両方が揃うほど、公正な社会とそれを構成する健やかなる人が増えていくんじゃないだろうか。
僕は個人的にそういう方向がいいなあと思うんだよなあ。
そんな祈りを持っているのでした。

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